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「頑張って強く生きるよ」 能登半島地震から1年、被災地で追悼

2025.01.03
 能登半島地震から1日で1年。被災地では、多くの人々が震災や豪雨で亡くなった人たちを悼んだ。生活再建に取り組み続ける人たちの姿もあった。
 能登半島地震と9月の能登豪雨の犠牲者を慰霊する輪島市での1日の追悼式には、317人の遺族が参列した。
 野々市市の保育士谷内未来さん(27)は、輪島市河井町の実家で父の松井健(たけし)さん(当時55)を亡くした。
 地震発生時、谷内さんら家族と別の部屋に1人でいた健さんは、倒れたタンスの下敷きになったという。「いたたたた」と言いながら部屋から出てきた健さんに、未来さんが「大丈夫?」と声を掛けると「大丈夫」。だが、その後の避難中に階段の踊り場で倒れ、帰らぬ人となった。心臓に傷がついていたという。
 「本当はすごく痛かっただろうけど、私たちに心配させたくなかったんだと思う」と話す。「どこが痛い?」と聞けば良かったと今でも悔いが残る。「助けてあげられんくてごめんね。私たちは生き残ったから、おとうの代わりに頑張って強く生きるよ。心配しなくていいよ」。父にそう声をかけたい。
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 金沢市から訪れた女性(37)は、輪島市町野地区に住んでいた父(当時79)を亡くした。潰れた自宅の下敷きになったという。「玄関前の廊下で見つかった。揺れて、『やばい』と思って逃げようとしたんだと思います」。女性は元日の午前中、実家から金沢の自宅へ戻った。父に「ごはん食べていく?」と聞かれ、断ったのが最後のやりとりだった。
 父の死を知った1月4日は、妊娠が判明した日でもあった。「しんどい始まりだったけど、自分の中では救いになった。失った命もあるけど、新しく守るものが増えた」。8月に長女が生まれた。「孫の顔を見せられなかったのが心残り。でも優しい父だったので、私たちのことを心配していると思います。頑張ってるよ、大丈夫だよって伝えたい」と話した。
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 珠洲市三崎町の保育士端名美佳さん(62)は、同居していた母のかず子さん(当時87)を亡くした。「自分たちも無我夢中で、前向きになるのに一生懸命な1年でした」。式典に母の遺影も持参した。
 かず子さんは心臓が弱く入退院を繰り返し、2023年末に退院して正月を自宅で過ごしていたところ、地震が襲った。揺れの後、津波から避難するため、美佳さんは近所の人の車に母を託し、高台へ避難した。その前後にかず子さんは意識を失い、病院へ連れて行く途中、死亡が確認された。心不全による災害関連死と認定された。
 「強い母でした。父を早くに亡くしたあと、3人姉妹を支えてくれた」。月命日の1日には好物だったチョコレートや果物を供える。仕事から帰った後、写真に手を合わせるのも日課だ。「いつものように『帰ってきたよ』みたいな感じで、まだそこにいるような(感じで)」と話した。
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 金沢市の会社員田保剛さん(41)は、珠洲市上戸町に住んでいた母のみどりさん(当時74)を亡くした。みどりさんは元々、透析治療を受けていたが、地震で地元の病院で治療を受けられなくなり、金沢市内の病院に搬送されたが、3月24日に亡くなったという。
 剛さんは6人きょうだいの5番目。「この1年はしんどかった。何一つ前に進んでいないし。母には『きょうだい皆元気にやっています』と伝えたいです」(波絵理子)
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 輪島市門前町の総持寺祖院の山門で1日、地震と豪雨の犠牲者のために追悼会(え)が営まれた。地震で傷ついた境内に約300人が参列。お寺も地域も必ず復興させるという決意を新たにした。
 34店舗が加わる総持寺通り協同組合との共催。地震で約20店が営業できなくなったが、昨年11月にプレハブの仮設店舗を3カ所で開き、11店が再起の道を歩んでいる。みなし仮設住宅で暮らし、衣料品店を営む能村武文代表理事(67)もその一人。「私たちは犠牲者の分まで生きる義務がある。総持寺あっての商店街。手を取り合って頑張っていく第一歩にしたい」
 境内では地震で回廊が倒壊し、多くの建物が傷ついた。崩れた石垣、割れた石畳、倒れた石灯籠(どうろう)も手つかずのままだ。昨年の大みそかは除夜の鐘をつけなかったが、この日は1年ぶりに18回の鐘の音が響いた。それを合図に、地震発生時刻の午後4時10分に全員で黙禱(もくとう)した。
 時折、土砂降りの雨となるあいにくの空模様に。山門ではワシや切り絵や色とりどりの花を描いた氷のアートが並んだ。手がけたのは長野県氷彫クラブの10人。松本市のレストラン経営、浅田修吉さん(66)は門前だけでも10回ほど訪れ、炊き出しなどのボランティアを続けてきた。「早く復興して、みなさんが次のステップに進んでほしい」
 祖院の高島弘成(こうじょう)副監院(51)がお香をたき、追悼のことば「法語」を唱えた。自作の漢詩を盛り込むが、この日の七言絶句にはこんな思いをこめた。
 「今はいばらの道かもしれないが、梅が雪に埋もれてつらく寒い冬を乗り越え、春風とともに花を開かせるように、我々も思いをひとつにして毎日を歩んでいけば、志半ばで犠牲になられた方々の思いとともに、復興の花を咲かせることができる」(樫村伸哉)
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 石川県珠洲市三崎町寺家の海沿いにある真宗大谷派の専念寺では、12月31日午後11時すぎ、除夜の鐘が始まった。21代目の畠山義邦住職(75)の次女慶子さん(26)が鐘をつくと、重い鐘の音が鳴り渡った。
 例年は鐘の音が聞こえると地域の人が集まり、小学生らも加わって一緒に鐘をついたが、今回は妻の由美子さん(65)を含め家族3人だけ。一帯は津波の被害に遭い、住む人もめっきり減った。
 昨年の元日、畠山住職と慶子さんは地震で本堂の下敷きになり、住民らに救助された。その後、本堂が解体され更地になるなど、悲しみで涙を流すことが増えた。一方、鐘をつくことを報道で知った石川県外の人から「元気を出してください」と丸餅が届くことも。長らく音信不通だった同級生からも連絡が来た。
 1日午前0時すぎ、108回の鐘をつき終えた。
 慶子さんは「災害がなく、平和な1年になってほしい」。畠山住職は「いろんな人に助けていただいた1年だった。今年は、小さくても住まいを確保したい。みなさんが集まれる場所もつくらないと」と話した。(波絵理子)
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 9月の能登豪雨で大きな被害を受けた石川県珠洲市のホテル海楽荘で2日、ボランティアが建物の中の土砂を運び出す作業を行った。重機を入れることができない細い通路や小さい部屋では人手による作業が続く。土砂の撤去が完了する見通しは立たないという。
 豪雨ではホテルを経営する池田幸雄さん(当時70)が濁流に流され亡くなった。ホテルの外壁を突き破って土砂や樹木が流れ込み、輪島市の復興支援団体が建物の復旧作業に取り組んできた。
 2日は午前中から午後3時ごろまで、ボランティア2人がスコップを使い、積もった土砂を少しずつ削り運び出した。木の根や流木が混ざっているため、思うように掘り進められないという。ボランティアとして参加した三重県の会社員石川昭憲さん(60)は「ホテルを元の姿に少しでも近づけるため貢献できていれば」と話した。(椎木慎太郎)