スペシャルインタビュー
タレント、歌手、実業家など幅広く活躍するはるな愛さん。被災地でボランティア活動を重ねるほか、こども食堂を開き、子どもたちの支援にも力を注いでいます。ボランティアをはじめたきっかけや思いを聞きました。
東日本大震災がボランティアのきっかけ。寄り添うことで、少しでも助けになりたい
――ボランティアに取り組むようになったきっかけと思いを教えてください。
2010年の「24時間テレビ」で85キロマラソンを走ったときに、子どもから年配の方まで数えきれない応援メッセージをいただきました。気にしてくださる方がこんなにいることが嬉しくて。
その翌年、東日本大震災が発生しました。このときに「今度は私が応援や優しさを返す番だ」と思い、被災地に行きました。
震災から10日後、福島県相馬市に支援物資を持っていきました。受け入れていただけるか不安もあったのですが、避難所の方々が私の手を握って泣き崩れるんですね。それまでは「自分より大変な状況の方がいるから」となかなか泣けなかったそうです。子どもたちは私の手を引いて学校中を案内してくれました。
またその5日後に再訪した際には、高校生の子が「避難所が初めて笑顔になりました」と深々と頭を下げてくれて。「この活動はずっと続けなければ」と感じ、休みのたびに被災地を訪問しました。
熊本地震や西日本豪雨、能登半島地震などでもすぐに支援物資を届けに行きました。被災した方々に寄り添うことで、ほんの一瞬でも悲しい、苦しい気持ちを忘れてもらえればと。テレビ出演のときも同じで、自分がテレビに映っている間だけでも、悲しいことやつらいことを忘れてほしいという気持ちで臨んでいますね。
能登半島地震でも多くの支援物資を届けた(右手は能登半島の形のポーズ)
こども食堂のごはんで、優しさと安らぎを届けたい
――こども食堂に取り組むようになった理由を教えてください。
2016年にラジオ番組に出演した際、全国こども食堂支援センター「むすびえ」の湯浅誠さんに、世田谷区にも「見えない貧困」があると聞いて衝撃を受けてしまって。当時、世田谷区で鉄板焼きのお店を開いていたので、すぐに湯浅さんに「自分の店でもこども食堂をやりたいです」と伝えました。
幼少期、自分も貧しかったことと、自分らしく生きられなかったことも影響していると思います。大阪の団地住まいで、電気やガスを止められることもしょっちゅうでした。また、女の子と同じものがよくても、周りは認めてくれない。本当にたくさんの壁がありました。
そんな貧困と絶望の中でしたが、母が心を込めて作ってくれた料理には、優しさと安らぎがありました。私も子どもたちに食事を通して、優しさと安らぎを伝えたいと思ったのがきっかけです。
――こども食堂を立ち上げるときに、苦労はありましたか?
こども食堂のアイデアを従業員に話したとき、「休みの日に出勤しないといけないのか」などとネガティブな反応もありましたが、「まずは一回やってみてほしい」とお願いしました。
近所の施設の小学生20人近くを招待したところ、子どもたちがお礼のメッセージを書いてくれたんです。お客様に「おいしかった」と言われることはあっても、子どもたちから「初めて大阪のお好み焼きを食べました。ありがとうございました」といったメッセージをもらうのは初めてで。従業員も感動して「続けましょう」と言ってくれました。
こども食堂は、「大三(だいざん)(杉並区)」で月に1回開催しています。子どもは無料、大人は100円です。近所の子どもや家族が来てくれるほか、地域の方がお一人でいらっしゃることもあります。
最初は食事だけだったのが、近所のお店がボードゲームを提供してくれたり、大学生が子どもに勉強を教えてくれたりするようになり、おしゃべりや勉強、遊びもできる「居場所」になりました。新しいつながりが生まれてうれしいですね。
――コロナ禍には貧困家庭や施設に食料支援もされていましたね。
子どもたちにレトルト食品を届けたいと湯浅さんに相談したところ、世田谷区長につないでいただきました。スーパーマーケットにも協力してもらえることになり、1万食のレトルト食品を子どもたちに配布することができました。
また、元々バーだったお店をたこ焼き屋に改装して、たこ焼きのテイクアウトも始めました。お店に筆記用具を用意していて、たこの絵を描いてくれた子どもには、たこ焼きをプレゼントしています。たこの絵がどんどん増えていくのがうれしくて、今でも継続しています。
食以外にも支援を広げたくて、古着のセレクトショップ「KOTOBUKI(ことぶき)」の一角に、洋服やおもちゃを自由に持って行っていいコーナーを作りました。寄付いただいたものなどを置いていて、どなたでも利用していただけます。
はるなさんのお店「たこはる」に貼られた実際のポスター
――はるなさんの支援に対する想いや原動力について教えてください。
子どものころは、本当の自分ではいられない生きづらさを抱えていました。徐々に大人になるにつれて、家族や出会う人のおかげで、自分の居場所を見つけることもできました。環境が変われば居場所も見つかります。こうした経験から子どもの居場所、そこに大人も一緒に関われるような居場所を提供したいという思いがあります。
また、何かを始めるときにはスピード感も大切にしています。不安要素があったとしても、何事も始めてみないとわからないと思うので。実際に動き出してみると、「場所を提供します」とか、「よかったらお米を使ってください」などと、ありがたい申し出をいただいいて進んでいきました。みなさんにも躊躇せず、子どもの未来のためにも思い切って動き出してほしいですね。
――こども食堂を運営するなかで、改めて気づいた現実はありますか。
生活に困っていても言いづらかったり、知られたくない、認めたくないと思ったりする人も多いように感じています。それに子どもが巻き添えになってしまうのはよくないので、「この1カ月乗り越えたら大丈夫」と思わずに、近くに助けを求めてほしいですね。
こども食堂は行政がやればいいという意見もありますが、さまざまな出会いがあり、運営側もそれを楽しみにしています。こども食堂に来ていた小学生が「大きくなったらここで働きたい」と言ってくれたときは本当にうれしかったです。子どもだけにメリットがあるわけではなく、本当にたくさんのものをいただいていると実感しています。
相手を知ることから広がる、お互いさまの気持ち
――ボランティアの一歩として、どのような意識や視点を普段から持つことが大切でしょうか。
何事も「お互いさま」の意識をもつことが大切だと思っています。被災地に行ってもそうです。私が大きな力をいただいて帰ることもいっぱいありますし、災害は起きてほしくないけれど「明日は我が身」で助けられる側になることもあると思います。
まずは支援を必要とする方がいることを「知る」ことが一番大切で、知らないことは人生を狭めることにもなります。知ることで、物事を考えるときの幅が広がり、深まっていきます。誰かを傷つけたくないと思う気持ちは自分の考え方を豊かにすると感じます。
――はるなさんがボランティアを長く続けられる秘訣は何でしょうか。
誰しも大変な時に、心に余裕がなくなるのは当然のこと。私も人への優しさのポケットがパンパンになってしまっている時期がありましたが、振り返ってみると、人に感謝ができると、いろいろな歯車が回り出したように感じます。
アスファルトのすき間から咲くタンポポがきれいだなと思える少しの余裕があれば、少しずつ人のことも考えられるようになると思います。ポケットに飴がひとつ入るくらいの容量でいいから、人のために空けておくと、「お互いさま」の気持ちにつながっていきます。
少しでもボランティアに興味があるなら、活動中の人に「今度いつありますか」とか「手伝わせてもらえませんか」とか聞いてみたらいいと思います。小さいことからで大丈夫です。でも、途中で「今は余裕がない」と思ったら、無理をしたら続かないので、休んでもいいと思います。
――はるなさんのこれからの目標や子どもたちに伝えたいことを教えてください。
子どものときに、近所の方が「芋ふかしたから食べや~」とさつま芋の鍋を持ってきてくれるようなコミュニティがありました。そんなふうにみんなを受け入れてくれるあたたかい場所、みんながつながる居場所を作っていきたいです。
私は16歳で女性として生きることを親に伝えた際、「後悔しないようにとことんやりなさい」と言われました。毎日自分が着たい服を着て、岐路に立ったら自分らしいほうを選ぶ。そうやって自分を満たしていれば、嫌なことがあっても前向きな気持ちになれるし、周りの人にも優しくなれる。思いやりを持って自由に生きてほしい、そして次の「お互いさま」につなげてほしいということを、これからも子どもたちに伝えていきたいですね。