スペシャルインタビュー
東京2020パラリンピックでは、大会を通した日本のメダル数が51個となり、2004年アテネ大会に次いで過去2番目のメダル獲得数を記録しました。
そうした中、日本自転車史上初となる同一大会2冠と、日本勢最年長となる50歳での金メダル獲得を果たしたのが杉浦佳子選手です。自転車レース中に転倒し、高次脳機能障がいと右半身のまひが残りパラ自転車に転向。初出場した17年のパラサイクリングの国際大会での金メダルを皮切りに世界選手権などで活躍を続け、快挙を成し遂げました。今大会を終えて感じたことや原動力について聞きました。
東京2020大会を終えて
――東京2020大会を振り返っていかがですか。
終わった直後は「これでお世話になった方たちに恩返しができた」という気持ちが大きかったんですが、お世話になった方にごあいさつにうかがったりイベントに呼んでいただいたりする中で、逆に「感動をありがとう」と声を掛けていただけることに驚いています。
「この私が『ありがとう』って言われる人間なんだ」「私は生きててよかったんだ」と噛みしめています。また誰かの喜ぶ顔が見たい、ありがとうという言葉を聞きたい。そのためにももうしばらくがんばろうという気持ちです。
――レース当日は緊張していましたか。
これまで支えてくれた人たちのためにも何とか結果を出したいという気持ちが大きかったので、緊張はしていました。ただ、「だめだったらどうしよう」という緊張ではなく、「緊張+集中」でした。
今大会に限らずコーチからは「やるべきことをきちんとやりなさい」と言われていました。そして「それはレースの日も同じ」という助言があったので、To Doリストを分刻みでスケジュール化し、ひとつひとつクリアしてレースに挑みました。余計なことは考えずに「決まったことをやる」ことに集中できたのがよかったのだと思います。
東京2020大会タイムトライアルに出場中の杉浦選手
――東京2020大会でボランティアの方たちとの交流はありましたか。
競技会場でご一緒したのはもちろん、マスクを回収してもらったり、ホテルではドアを開けてもらったりしました。今回はコロナ禍でボランティアに参加することに葛藤があったと思います。私も「応援して下さい」とは言いにくい状況でした。それでも、仕事を休んでまで参加された方も含め、本当に多くの方々がボランティアとして活動して下さったことに感謝の気持ちでいっぱいです。
――大会延期の影響はありましたか。
延期されたことで、自分が活躍するのは難しいだろうなと思いました。若手が次々と出てきますから。元オリンピアンのコーチには「オリパラは輝ける場所だから」と励まされていたのですが、コロナ禍の閉塞感で大会の前に重い扉が立ちはだかっているように感じていました。
そのような中、ボランティアのみなさんには感染対策にも大きな力を貸していただいて、無事に大会を開催することができました。中止になっていたら金メダルはここにありませんでした。
分厚くて重い扉をボランティアのみなさんが開けてくれたと思っています。
明るく前向きな杉浦選手
「復帰は無理」と言われたケガからパラアスリートに
――自転車を始めたきっかけを教えて下さい。
もともとはマラソンやトライアスロンをやっていたのですが、自転車を始めたのは、チームの練習に誘ってもらったことがきっかけです。ロードレースも、誘われてなんとなく始めました。初めて出場したレースでは全然ついていけなくて、スタートして次のコーナーで既に置いていかれていました(笑)。それを見ていたコーチが練習メニューを考えてくれ、のめり込むようになりました。誰のそばにいるのかって本当に大事ですよね。
私自身、運動は特に得意ではありませんでしたが、なんとなく自転車に乗ってみたことでこのような結果を出すことができました。自転車競技も色々あって、持ち味をうまく生かせば誰でも勝てる可能性があります。みなさんにもまず乗っていただいて、自転車の楽しみを一緒に分かち合っていけたらいいなと思います。
――2016年にロードレースでケガを負った翌年にはパラサイクリングの大会に出場されました。
医師をはじめ多くの人に「さすがに復帰は無理」だと言われましたが、医師や理学療法士がチームを組んでリハビリを考えてくれました。復帰できたら奇跡という中でそれをかなえられたのは、ひとえに周りのサポートのおかげです。
覚えていないのですが、事故後まもなくは「死にたい」って言って大変だったらしいんですよ(笑)。
そんなとき、理学療法士さんが「自転車、好きだよね」「自転車あるけど乗らない?」と声を掛けてくれたんです。なぜか自転車には乗りたいという気持ちがあり、乗ってみるとあまりに勢いよく漕ぐので、見ていたみなさんが焦ったそうです(笑)。そこからパラアスリートとして自転車に乗る方向へと向かいました。
――パラサイクリングの魅力を教えて下さい。
パラサイクリングの場合、障害の種類によってクラスがわけられていて、それぞれの特性に応じた自転車で競います。
タイムトライアルはタイムを競うのですが、障害が軽いクラスの選手が有利にならないように障害の程度に応じた係数があり、自分が走ったタイムに係数をかけて出た数字が選手の記録になります。実際のタイムを見た後でも計算しなければ誰が勝ったかわかりません。ここにまずハラハラします。
ロードレースでは、先頭を走っている人は風が当たり負荷がかかるので先頭を交代するのが暗黙のルールになっています。誰が先頭を引き受けて、誰が先頭に出ないのか。こうした駆け引きが見て取れるところがパラサイクリングならではのおもしろさだと思います。
「どん底」の時こそ「がんばれる」
――これからの目標は何ですか。
東京2020大会が終わったら引退するつもりだったのですが、なんとなくそういう雰囲気じゃなくなってきて(笑)。これからも選手を続けて自分の限界を見たいと考えるようになりました。
パラリンピックでメダルを2つ取ったのですが、トラックで失敗してしまったのが自分を許せなかった部分でした。もう一度チャレンジしたいなと思っています。チャレンジが失敗したら、それを受け入れて自分がどう変わっていくのかを見てみたいです。
自分の人生を振り返ると、「人生のどん底だ」と思ったときほどモチベーションが高かったんです。だから、自分ももう一度かっこ悪い状態になってみようかなと(笑)。どん底に落ちたら、もう上るしかないんです。
――東京2020大会に限らず、これまでに印象に残っているボランティアの姿があれば教えてください。
カナダのワールドカップに出場した際、競技会場が高校で、ボランティアも高校生でした。ボランティア活動が授業の一環だったようで、日本担当の生徒は日本文化や日本語を勉強していました。片言の日本語が話せる高校生のボランティアと会話できたことはとてもうれしくて、忘れられない思い出です。
日本でも世界的な大会で若いボランティアが活動し、その世代が今度は指導役になる、その姿を見た子どもたちが自分もボランティアがしたいと思う…といった循環ができれば、ボランティアの輪がどんどん広がって素晴らしいんじゃないかなと思います。
日本自転車史上初となる同一大会2冠を果たした杉浦選手の金メダル